第43回「日本映像民俗学の会」オンライン大会

第43回日本映像民俗学の会にオンライン大会に視聴者として参加しました。
かねてから参加したいと思いつつ忙しくて実現できず、今回オンラインということもあり、急遽参加することができました。

今大会のテーマは「映像民俗学は今をどう乗り越えるのか?」。とても興味深いテーマであり、中身も濃く、参加して良かったです。どの発表者もテーマに通じる話で、映像民俗学や映像人類学といった世界のますますの可能性を感じさせるものばかりでした。

発表者の話を聞いていて、いろいろと自分に対して思うことがありました。

まず、自らの立ち位置について危うさを感じ、確かめたくなってしまったのです。「はて、自分は何者なんだろう?」と。

僕は、アカデミックに属していません。また、映像業界から言っても端っこにいて、僕はいてもいなくても良いような存在なのです。(自虐的だけど、どこにいても自分は影薄いなーと。。)

そんな僕でも、この一年のコロナ禍で痛感したことがあります。それは「何のために映像を撮っているのか?」でした。

僕の答えは、「生きていくために映像を撮っている」ということでした。(映像業界にとっていてもいなくても良い存在なんですが、これはギリギリの存在証明のようなものなのかな。)

“自分が生きていくために” ということが第一義ではあるんだけど、”誰かが生きていくために” 撮っているとも同義で言える。

では、「その撮った映像(作品)は、誰のためにあるのか?」

その答えは、「観る人のため」にあるものだと思っています。(そこが第一義で、”自分のため”というのとはちょっと違う。)

ならば、「映像は観る人の何と向き合っているのか?」

その問いの答えは・・・、「観る人の”想像力”と向き合っている」に他ならない。(コロナ禍で人は見えないコロナを不安視している。映像は、見えないものを見ようとする試みでもある。)

だからこそ、映像の作り手には、映像に対してもう少し謙虚であってほしいです。でなきゃ、いくら映像民俗学や映像人類学といえども独り善がりになってしまうのでは??

生意気にも、そんなことを思う1日でした。誰かにというより、自分にそう言い聞かせたのでした。

いやー、面白かった。
刺激的な1日で、興奮が冷めやらない。

あ゛

いかん、いかん。

いま編集作業をしておりまして・・・。
200時間以上ある映像を前に、逃避行してしまった。。

生きていかねばっ! (←これが一番大事。)