先日、実家のお仕入れに入ったままの段ボールを大量に整理・処分した。中身は、2、30年前の書籍やノートなど、忘れていた思い出の品々だ。
その段ボールの中から、大量の新聞の切り抜きが出てきた。日本映画学校の学生時代に凝っていた切り抜きの束であった。その大半は、朝日新聞の「ひと」欄であり、時代の空気みたいなのがぎゅっと押し込められているものばかりであった。
その中で異彩を放つ見出しを発見した。
“癒しのキャバレー文化の復活を唱える”
“孫5人、「僕の仕事を理解できるようになるには、まだまだです。」”
数ある真面目な見出しの中で、これだけは妙に弾んでいた。
さてこの記者は、・・・もしかして小泉さんでは?
僕の読みは、正解だった。
* * * * *
朝日新聞の小泉信一さん。
忘れられない記者だ。
僕自身、過去何回も記事に取り上げてもらったことがある。しかも、その全てがツチノコの話題で。また、朝日新聞ポッドキャストに小泉さんと一緒に出演したのも、ツチノコ関連であった。小泉さんの記事は、いつも相手を和ませる面白さがあった。
最初の出会いも、面白かった。
2019年のある日、突然に「朝日新聞の小泉信一です いま君の故郷にいるからお会いしたい」というショートメッセージが届いた。どうやら、朝日新聞の「みちものがたり」で東白川村を取り上げるなかで、僕のことを知ったようだ。後日、東京でお会いすることになり、昼過ぎの某所レストランでお会いした。
小泉さんは、(他の記者のように)一旦はテーブルに取材ノートを広げ、僕の生年月日と名前を書き込んだ。しかし、そのあとすぐにノートを鞄に戻した。
「こういう堅苦しいのはやめて、呑みませんか」
僕ではなく、小泉さんからそう切り出したのだ。
こうしてお互いの素性もよくわからないままに、2人でビールを飲むことになったのだ。
(ここまでの展開が早すぎて、、、小泉さんが新聞記者だとは、僕はまだ信じていなかった。)
話題はツチノコや日本各地のUMAなど。その全ての話題が実際の取材に基づいており、地元の人の顔が実際に目に浮かぶうような語りぶりであった。あまりの詳しさに、僕は脱帽した。そして嬉しそうな顔で、彼はビールを飲むのであった。
「ツチノコでドキュメンタリー映画を作ろうとする若者が現れたことが嬉しくてたまらない」と、ビールを何度もおかわりしていた。
小泉さんは人の懐に入るのが上手い。民俗的な事象を映像で追いかける僕の関心と相俟って、話が弾んだ。
* * * * *
以来、小泉さんとは時折連絡を取り合うように。
「いま、オオカミ伝承で秩父に・・・」
「いま、座敷童で群馬に・・・」
「いま、UFO事件で山梨に・・・」と、取材先から何度も電話をいただいた。
無邪気な好奇心を隠そうとしない小泉さんに、僕は「何やってるんですか」と笑いながら反応をした。一方で、こういう大人になりたいと思った。
小泉さんがガンで闘病されていることは、本人から聞いていた。最初は明るくおっしゃるから、僕も軽く受け止めていた。
拙作『おらが村のツチノコ騒動記』が完成した時、小泉さんは入院先の病室にいた。完成作品DVDを病室に送り観てもらった。その時も電話越しから「嬉しい、嬉しい!」と激励された。拙著「ツチノコ撮影日誌」を出版した時もそうだ。いつも応援してくれた。
* * * * *
2024年5月30日付「ひと」欄に、僕を取り上げてくださったのも小泉さんであった。
小泉さんの自宅近くのカフェで取材を受けることに。待ち合わせ時間に遅れてゆっくりと現れた小泉さんは、別人のように痩せて老け込んでいた。抗がん剤治療の影響か、腰の激痛に耐えられない事が多いという。僕は動揺を隠せなかった。
取材のあと、行きつけの蕎麦屋で天丼と蕎麦のセットランチをご馳走してもらった。
お酒は飲まなかった。
食べれないかからと、小泉さんの天丼の半分は僕がいただいた。
そして何気ない会話が続く。
その時間は重厚で、別れの予感を帯びていた。
* * * * *
小泉信一さんが亡くなって、もうすぐ1年になる。
朝日新聞のデータベースで、小泉さんが書いた過去の記事と向き合った。
「患者を生きる」で自信の闘病を語る記事を読み、はじめて彼の心のうちを知った。定年後は「妖怪や怪異伝承、日本の民俗を研究し、執筆生活に入るのが夢だった。」と記されていた。
「東京社会部の下町担当として芸能や文化、街ダネを書いてきた」と本人が自称するように、小泉さんは下町や大衆に馴染む。20年ぶりに再会した切り抜きの「ひと」欄もそうだ。
どの記事も対象者の目線に合わせながら、彼らの大きなハートを描き続けていた。